質問15 「銚子塚古墳」の発掘はいつ?
答え15 明治13年(1880)2月20日、寺谷の八幡神社付近に住んでいた松下栄吉・奥五郎親子と協力者2人によって行われました。以下はインタビューの記録です。
・松の大木を掘り起こしていくと、鍬(くわ)にあたるものがあり、それは鏡だった。
・その時激しい夕立があり、掘り起こしたことによる祟(たた)りだと思い、こわくなって逃げだしてしまった。
・その後現場に戻ると、掘った場所が水たまりとなっていて大変だったが、銅の器や鍬などが出てきた。
(写真左)鏡(三神三獣鏡)は直径17cm
(写真右)銅鍬は2個出土し袋部は4.5cmでゆりの花のつぼみのようだったと記録されています。
鏡は当時25円で買い取られ、現在は東京博物館に所蔵されているようですが、そのほかは学術的な裏付けもない調査で、出土品もすべて行方不明という、残念な発掘結果だったと記録されています。(会報誌「銚子塚の里」No.38より)
質問16 岩田村に初めて電灯がついたのはいつ?
答え16 大正9年(1920)5月6日です。それまでは「ランプ」の時代でした。この日は役場で午前10時から12時の間に印鑑持参で電球が交換され、ほとんどの家で電球はわずか一灯か二灯だったようです。(会報誌「銚子塚の里」No.39より)
質問17 岩田小(匂坂学校)で初めての校訓は?
答え17 明治40年(1907)2月11日です。(会報誌「銚子塚の里」No.39より)
1 善き人となるの本は正直にあり
1 賢き人となるの本は勤勉にあり
1 健き人となるの本は衛生にあり
明治という時代らしい言葉ですが、その精神は現代にも十分通用します。
質問12 第2次世界大戦中の岩田小周辺の被害は?
答え12 空襲警報などはたびたび発令されました。また、昭和20年1月や2月にはアメリカ軍飛行機が、学校上空を南進しましたが、岩田村は一発の爆弾も落ちてはいないと記録されています。(ただし、男子小学生一人が浜松の親せきの家に行ったとき、空襲にあって亡くなったそうです)2月16日、17日にはアメリカ軍の小型機が超低空で通過し、操縦するアメリカ兵の顔が見えたという証言もたくさんあるそうです。(会報誌「銚子塚の里」No.23より)
質問13 岩田小最初の運動会は?
答え13 明治21年(1888)4月28日、天竜川の河原で豊田や見付地区など7つの学校が集まって行われました。参加児童は2年生以上で、女子は見学のみだったようです。(当時は、女子は運動などをすべきでないという考え方があったようです)(会報誌「銚子塚の里」No.24より)
質問14 大正4年(1915)の岩田小の人数は?
答え14 児童数336人(男170人、女166人)で、当時は今の3倍近くの人数が岩田小で学んでいました。岩田村全体でも2,054人が住んでいました。(令和3年8月の岩田地区の人数は2,029人でした。平成2年は2,174人でした)(会報誌「銚子塚の里」No.25より)
質問8 岩田地区の大きな水害があったのはいつ?
答え8 いまからちょうど110年前の明治44年(1911)。前日から降り続いた大雨で8月4日夜10時、ついに天竜川堤防がくずれ、大量の水が岩田村に流れ込み、岩田小のまわりも60cmの湖になってしまったそうです。村人は学校やお寺や高台に避難しました。記録では294件が水につかったとあり、岩田村のほとんどの家が大変な被害を受けたことがわかります。村人はそのあと数日間は小舟で移動したそうです。(会報誌「銚子塚の里」No.20より)
質問9 明治16年(1883)当時の匂坂学校(岩田小)の人数は?
答え9 児童数184人(男140人、女44人)で、今の124人よりも60人も多かったことがわかります。しかし、当時の岩田村の児童数は374人もいましたので、約半数の子どもしか学校には行かなかったことがわかります。男女の数もアンバランスですね。
質問10 明治16年(1883)当時の匂坂学校(岩田小)の先生の数は?
答え10 わずか6人でした。宮地校長先生が30歳!他の5人は全員男性で、年れいは皆14歳から18歳まで大変若かったようです。今でいう中学生や高校生のお兄さんたちに教えられていたということになります。(先生の給料は月8円でした)
質問11 当時の夏休みの期間は?
答え11 8月11日から17日までのわずか1週間でした。冬休みは12月25日から1月7日までですから現在とほぼ同じです。夏休みは短いですが、畑や田んぼなどの家の手伝いをする休みが2週間あったそうです。当時は試験もあり、試験が終わると5日間は休みもありました。